インドネシア人先生のゼンさんとキガリへ行く用事ができた。目的はモスクへ行くこと。インドネシアはイスラム教徒が多く、ゼンさんもムスリムなのだ。この日は金曜。金曜礼拝の日だ。
モスクへは異教徒の僕も簡単に入れてもらえた。入り口で靴と靴下をぬぎ、手足と口の中を水で洗い清めた後、礼拝堂へ。
喧騒のキガリ中心部にあるとは思えないほど静かで大きな伽藍に、一人の老人が柱によりかかりコーランを読んでいた。他には誰もいない。残念ながら到着が少し遅れたため、金曜礼拝は終わっていたのだ。
ゼンさんは一人、祭壇のまえで祈り始めた。普段はにこやかな彼も、祈るときの姿は全く別人だ。僕は後ろのほうで正座をしながら、その姿をただじっと見ていた。
規則正しく厳かなその祈り方は、確固とした依るべきものをもったムスリムのプライドが感じられた。祈りが終わり、ゼンさんが別のムスリムと会話をしているのを見ると、なんだか遠くの人のように感じられた。そして同時に羨ましくもなった。
羨ましいのは彼に仲間が出来たことではなく、深い宗教性に裏打ちされたゼンさんの存在だ。
僕ら日本人はなんだかふわふわした存在で宗教からは一歩置いているが、彼は生活に宗教がしみこんでいる。
ルワンダを含む世界の国々ではキリスト教やイスラム教を信仰し、それを自分のアイデンティティにしている。それをみていると、自分はこれでいいのかと不安になってくる。
僕は今の日本の束縛されない宗教観は好きだ。だから決して何かの宗教に入りたいわけではない。だがこの状態の欠点は、自分の中にいざという時の心のよりどころが無いことだと思う。
世界は、一人で生きていくには過酷で、吹きすさぶ嵐のようなものだと思う。その前で依るべきものをもたない人間は、簡単に自我が押しつぶされてしまうのでないだろうか。
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