2011年4月22日金曜日

腹減った

中国製ラーメンとメンマ。

いつも、いつもアフリカ食、ルワンダ食。
みんなに隠れて部屋でこっそりと別のものが食べたくなるのです。

ある日は、中華食材が売っているT-2000(フランス語でテードミル)で買った中国製のラーメンとメンマ。辛くて味が濃いけど、うまい。ずるずる。
またある日は、韓国の辛ラーメン、などなど。


そして先日は妻から 、なんと5kgもの日本米が送られてきたのだ!
さすがに飛行機を使った国際郵便のEMSでは数万円かかるので、今回は数千円で送れる船便を使ったそう。


だけど、海路と陸路を通る船便は極めてリスクが高い。日本を出て、シンガポールからインド洋を抜け、ケニアかタンザニアに陸揚げされ、そこからおんぼろのトラックで砂煙を上げながらルワンダまで運ぶのだ。その間、たくさんの人間に触れられる。特に日本からの荷物ということでみんなの興味を引くのは間違いない。

日本米とレトルト牛丼。奇跡!
そんな、危険を潜り抜けてきたミカンのダンボール箱は、すでにボコボコにへこんでいたけど無事にたくさんの日本食材とお米を満載して僕の手元に着いたのだ。送り出してから2ヶ月たっていた。

さっそく、炊いたササニシキ。1年3ヶ月ぶりの味。
うまい!ご飯があまい。これだけで食べられる。 次はインスタントの味噌汁と一緒に。これまたうまい!三杯目はおかゆにして、塩昆布で。またまたうまい!

やはり、自分の舌はそう簡単には変わらないものですなあ。

ありがとう!

2011年4月21日木曜日

慈善だろうか?偽善だろうか?

先日、難民キャンプを案内してくれたシャロームから電話があった。
「メールを書いたから読んでくれ。」

内容は、父が集めてくれるお金だけでは、高校の学費が払えない。ぜひ僕に援助してほしい。今学期の学費40000Frwが必要なんだ、というものだった。

僕は90%の確率でお金をくださいということを言われるだろうと思っていたが、案の定だった。
僕は電話口で、援助を断った。

40000Frwなんかたったの6000円でしかない。今後3年分払ってもせいぜい54000円。これだけのお金で彼は高校を卒業できるのだ。

だけど、あげたくない。
だけど、葛藤がある。


二つ返事であげてしまうと、僕達ムズングは単なる金づるでしかない気がしてならない。そして、あげたら最後、次々に別の仲間が俺にもくれと言ってくるだろう。そもそも本当に学費に使うのか分からない。父親の酒代に消えるだけかもしれない。

また、あげたときの自分が嫌でならない。彼を援助して自分が英雄気取りになるのが許せない。たった一人を救って何になるんだというむなしい気持ちにもなりそうだ。

だけど、目の前で困っている人がいるのも事実。そしてあんなに僕に親切にしてくれた彼のことをこんな形で見捨ててしまうのはなんと罪なことか。

どうすればいいのだろう。

2011年4月20日水曜日

追悼の炎

井形に組まれた大きな薪に火がつけられた。


4月8日、虐殺された人々を偲ぶ集会が行われた。虐殺週間中もっとも大きい集会だ。


文化省の大臣、軍の将軍、郡長などが出席しそれぞれ虐殺を繰り返さないことを誓い、その後虐殺によって両親を亡くしたTCTの卒業生が鎮魂の歌をうたった。


虐殺が行われた政治的な背景を、学生が劇として演じた。ツチ族とフツ族は仲良く暮らしていたが、政治家が引き裂き、互いを殺すように仕向けたという内容だ。


そしてフツ族がツチ族を殺す場面が演じられたその瞬間、
「イウェー!」
と、動物の叫ぶような声が後ろから聞こえた。
はっと振り向くと、女の人が顔を抑えてうつむいている。


すぐに周りの人が両脇から抱えて会場の外へ連れ出した。
だが女性は叫び声をあげながら、もがき、壁をたたき、いつまでも泣き叫んでいた。


衝撃だった。
否が応でも、この国で本当に起こった出来事なんだ、と思い知らされる瞬間だった。


そして同時に津波に飲み込まれていった人たちのことを考えた。 すべてを飲み込んだ壁のような津波が、次々と人々を飲み込んでいく様を。


僕は呆然と立ちつくしてしまった。言葉にならない悲しみは、いつでも世界中で起こっているのだ。死や悲劇は決して自分と離れたところに起こるわけではない。


歌い終わった卒業生が、当時の様子を淡々と語る。
「私の母は、男達に殺されました。目の前で両腕を切り落とされ、足を切断され・・」
隣で僕に解説してくれた学生が、これ以上言葉を見つけられないよと言った。僕はそのまま卒業生の顔を眺め続けた。


パチパチとはぜる炎が人々の顔を照らし、白い煙とともに夜の闇にに吸い込まれていった。
息の白い、寒い夜だった。

2011年4月7日木曜日

虐殺週間

横断幕。虐殺とツチ族の文字が。

今日4月7日から13日まで、虐殺週間(ジェノサイドウィーク)が始まる。

1994年4月6日夜に大統領の乗った飛行機が撃墜されたのをきっかけに、翌日の4月7日からおよそ3ヶ月間にわたりルワンダ全土でツチ族と穏健派フツ族に対する虐殺が行われ、80万人近くが犠牲になった。

その痛ましい歴史を繰り返さないためにも、この一週間ルワンダ国民は喪に服す。 各地では虐殺関連の公演や討論会、映画の上映が行われる。

今日はその初日ということで、正午からポールカガメ大統領がラジオやテレビを通じて虐殺を繰り返さないことを訴えた。

トゥンバ高等技術専門学校(TCT)でも食堂に教員や学生が集まり、皆が沈痛な面持ちで話を聞いていた。

17年前に起きたこの事件、TCTの学生ならば5歳前後だろう。両親や兄弟、親戚が殺された話はあちこちから聞く。トラウマを抱える学生も多い。

これから1週間、ルワンダ国民は過去の痛みと向き合っていく。

2011年4月6日水曜日

中間試験

最近、ちゃんと活動やってるの?という問い合わせが。
全く活動報告をしていなかったけど、ちゃんとやっています(笑)。ただマンネリな内容かなと思ったので載せてなかっただけでした。

今semesterでは、AnalogElectronicsという授業を教えています。 とても基礎的な内容で、抵抗やらトランジスタなどの実験を教えてます。ついでにオシロスコープなど測定器の使い方も。

そこで今日は中間試験で、測定器の使い方の試験をしました。学生に一人一台、アナログテスターとオシロスコープを渡し測定をやってもらいました。

こういう試験はTCTでもたぶん初。ほとんどがペーパーテストの中、今回は手探りでやってみた。36人いる学生を限られた時間でいかに試験していくか、結構知恵をしぼりました。

テクニシャンやほかの先生に生徒の誘導などを手伝ってもらいながらも、なんとか全員の試験を完了。終わったあとはちょっと爽快感。彼らとビスケット食べながら、のんびり反省会などをやったりしました。

生徒の反応や先生の意見としては、時間が短いが大半。うーん。でも、ちゃんとできた生徒はいたからなあ。やっぱり時間を延ばして、追試やってみるかなあ。。でも、やらない奴はやらないしなあ・・。


と、こんな感じで毎日いろいろやってます。

p.s. 1年前と比べると、新鮮さが消え月日の流れるのがとても早くなってきました。こんなアフリカの奥地でも人間は慣れるものなのだなあと、しみじみ思う今日この頃。

2011年4月5日火曜日

難民キャンプ

昨日までルワンダ北部の都市、ビュンバに行ってきた。

トゥンバから西へ山道を越えることおよそ3時間。乗車率200%かつジェットコースターのような車中で、親切に席を譲ってくれた学生がビュンバにある難民キャンプに住んでいるという。僕は興味をそそられ翌日彼の住むところまで行ってみた。

Gihembe難民キャンプ
ビュンバはルワンダ第六位の都市で、それなりに栄えている。難民キャンプは谷を挟んだ向かいの山に白くきらきら光る建物が無数に広がっているところだ。徒歩で30分ほどで着く。

一歩難民キャンプに足を踏み入れるとよれよれの服と鼻水をたらした子供たちがムズングー!と駆け寄ってきた。泥土で作られた家々は密集し、屋根はUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のビニールシートがかけられ、雨をしのいでいる。狭いわりにやたらと人の数が多く、むき出しの道の上で大人は立ち話、子供たちはペットボトルやヤギをおもちゃに遊んでいる。


自家製ビールを売る家
このキャンプは1997年の隣国コンゴでの紛争を逃れてきた人々が住み着いたところだ。およそ14年が経ち、多くの子供がこのキャンプで生まれている。ルワンダと接する東部コンゴは内戦が激しく、政府のコントロールも及ばない地域だ。彼らもいったいいつ帰れるのか全くわからない。国籍もコンゴのままだという。

キャンプ内には学校や教会、病院もある。小さいが売店もある。食事は月に一回配られる国連からの食料で生活している。
だが難民の大多数は職が無い。せいぜい荷物を運ぶ荷役夫ぐらいで日当は400Frw(55円)。それだけでは暮らせないので、国連からもらった食料を貯め、近くの市場で売って現金を得ているという。

シャロームと母親
案内してくれた高校生のシャロームは、ルワンダ北西部の都市ギセニで勉強している。彼によると、高校を卒業したぐらいでは、難民キャンプの生活から逃れることは難しいという。大学以上を出ないとキガリなどでは働くことができないという。おそらく難民キャンプ出身で国籍もコンゴということも就職先を狭める要因になるのだろう。さらに以前はキリスト教系のNGOが教育費用を援助していたそうだが、今では撤退してしまったそうだ。

シャロームの友人のエリックの家にも行った。彼は両親が内戦で死んでしまい一人暮らし。粗末な泥の家だが、とても喜んで僕を部屋に招きいれてくれた。 彼は部屋の奥から小さいアルバムを取り出し僕に見せてくれた。彼はルワンダダンスが得意らしく、衣装を身に着け大勢の前で踊っている写真が印象的だった。
だが僕には、君は将来何になりたい、なんてことは絶対に聞けない。彼のアルバムを真剣に、できる限りの誠意を持って見ることだけが、そのとき僕にできた唯一のことだった。


人気歌手の絵を書いて遊ぶ
 ここでも子供たちは元気だった。本当に明るく、屈託が無い。都市の子供たちとは全く違う。歩くとすぐに20人ぐらいの子供たちが寄ってきて、僕の後ろに行列を作る。僕のかばんのアクセサリーが気になるようで、すぐ触ってくる。追い払うためガオーっと威嚇すると蜘蛛の子を散らすように逃げるのがとても楽しい。子供たちもうれしそう。たまに本気で追いかけ子供を捕まえると、顔をくしゃくしゃにして泣き出す。だけど周りの大人も子供も大笑い。僕もこんなに楽しいことは久しく無かったなあ。




帰るとき、ほんとうに名残惜しそうに見送ってくれた。かけがえの無い友人達に、また出会えたようだ。

2011年4月4日月曜日

ラジオ修理屋さん

トゥンバを散歩しているとき、呼び止められて何気なく入った家が、実はラジオや携帯電話を修理する家だった。ルワンダ人はラジオが大好きなので結構需要がありそう。修理代は1回300Frwぐらい(50円)。村に電気がきてないので、半田ごては炭火で熱して使っていました。バナナの木の下で、のんびりと半田ごてとテスターを使って修理している姿がとても印象的。またいい感じな一家に出会えた。

2011年4月1日金曜日

原発の心配をしてくれるのはいいけど・・

いつもへらへらしている同僚のルワンダ人が、突然真顔になり、
「日本は津波の影響で大変そうですね、お悔やみを申し上げます。あなたの家族は無事ですか?」
なんだか他人行儀で違和感があるけど、心配してくれてうれしい。


 アフリカでも津波の話題は広く知れ渡っていて、トゥンバの地元の人も心配してくれる。


実際、アフリカ地域のBBC放送でも震災から1週間は90%が日本の震災関係だった。
3週間が過ぎた今でも3割ぐらいは日本のニュースで、残りはリビアとコートジボワールの紛争(どちらもアフリカ)の話だ。


ただし最近はもっぱら原発のニュースが多い。もう"Fukushima"という言葉は誰もが知っている。
原発のないルワンダ人は日本は大変だねという。だが、原発のあるヨーロッパ人と話すとわれわれも気をつけなればと言う。同時に地震多発の日本になぜ原発なんか作ったんだ、とも言う。もっともの話で、言い返す言葉がない。


原発の見直し論議が世界中で上がっている。だが彼の発言を聞いて、この論調がいつまで続くか気になってきた。つまり地震や津波の多い日本が原発なんぞ作ったからこんな事故になったのであって、今回の事故は「例外」である、という話にもっていかれるのではないだろうか。


チェルノブイリの事故後も原発の怖さが広まったが、結局作業員の操作が悪かった「例外」であるという話でうやむやにして片付けられた気がする。そしてその後も世界中で原発が作られ、維持された。


東電の人たちは津波の高さが「想定外」だった、だから事故は起こってしまったという。なんだか「例外」である、ということを強調しているみたいだ。


原発に「例外」があっていいものだろうか?原発が作られ始めて5、60年近くたつ。スリーマイルを含めると、もう3回も例外を作ってしまったのか。


今作られている原発は最新の設計だから絶対安全だとも言う。だが信用できない。納期に追われた技術者は、設計上のつじつまが合わなくて無理やり設計の計算結果を変えてしまうかもしれない。1970年に作られた当時の福島第一原発も「絶対安全!」と言われていたはずだ。原発の数が増え続ければますます事故の確率は増す。


世界から原発を無くすか、20年に一回起こるであろう放射能事故に絶えながらエネルギーを使う生活を続けるか。僕たちは選択を迫られている。