2011年12月21日水曜日

ワタル先生を囲む会

最後の授業が終わり、Semester1の生徒たちが僕の送別会を開いてくれた。

夕方、学校のそばにある酒場へ向かった。その名もトゥンバ・セレナ。
セレナは世界的規模の高級ホテルチェーンであるが、ここは掘っ立て小屋に近い。もちろんギャグだが、誰が命名したのかは不明。

生徒にビールとジュースを振る舞い、彼らと語らった。ルワンダの風習では金を持っている人がほかのひとをもてなすもの。だから自分の送別会では自分がお金を出すのだ。

ちなみにアルコールを飲む生徒は半分ぐらい。飲めないわけではないが、抵抗があるようだ。アルコールというものは不浄なものという感じだろうか、がんと拒む。

送別会では、僕を囲み生徒が一人ひとり演説をする。なんとも気恥ずかしい。最高の先生だったよ~と、お世辞でもうれしいのが人情。だんだん彼らと別れるのが寂しくなり少し泣きそうになる。


思い返せば、2年目の授業は彼らと格闘し、助けられた年だった。アナログ回路、IP電話、プログラミングの3つの授業を受けもち、そして期末テストやレポート採点。 さらに一緒に折り紙を作ったり、「千と千尋の神隠し」を鑑賞したりもした。みんなは、こんな変わり者のムズング教師のことを少しは認めてくれたかな。


さすがに延々30人も謝辞が続くと、涙も引っ込み、疲れてしまう。最後に僕がどんな言葉を言ったかあまり覚えていないが、涙が出そうだよと、ちょっと嘘を言ってしまったかも。

だがこれだけは覚えている。
「お前らのことは一生忘れない。」

2011年11月23日水曜日

キガリに日本食レストラン登場

半年ほど前に、キガリのギシューシュ地区に日本食レストランができた。
なかなか評判もいいし、同期と行ってきた。

店内は広く綺麗で、ルワンダ人(ケニア人?)の板前も。

寿司やうどん、鉄板焼きなど注文。どれもそこそこうまい。

経営者は日本人ではなく、韓国人。なので、メニューにビビンバもあり。

たまたまその韓国人もいたので話を聞いた。もともとケニアでレストランを経営していたらしく、ケニアは日本食レストランが8件ほどあるらしい。すでに過当競争なので、ルワンダに店を構えたそうな。しかしケニアの日本食レストランも、大きい店はほとんど韓国人経営らしく、日本人経営の店はもともと小さいためつぶれてしまったそう。実に商魂たくましい韓国人でした。



ところで「鉄板焼き」というメニューは外国でよくみかけるけど、日本でそんなにメジャーだったかしら。外国ではカウンターの前に立った料理人がお客の目の前でパフォーマンスをしながらジュージュー肉を焼くイメージだけど、日本ではせいぜい広島のお好み焼きぐらいしか浮かばない。

2011年11月16日水曜日

ウガンダ、カンパラ

カンパラはウガンダの首都だ。

しかし、ルワンダの隣国とはいえ、キガリよりも数倍大きく、物も豊富だ。ビルも多く、大型スーパーのナクマットには、なんとエスカレータが!これには驚いた。うらやましい。

街中には、中華料理店だけでなく、韓国料理店や日本人が経営する家庭料理の店まで。

しかし、大きいビルはたくさんあっても、渋滞がひどく、さらに道が塗装されていないところが多々ある。ぬかるみがひどく、タクシーが進めない。さらに道端はゴミだらけ。キガリは綺麗だったなあ。

バスが停車すると、バナナ売りや串焼き売りが寄ってきてみんなが買う。食べたバナナの皮は、窓からぽい。みんな気にせず、ぽい、ぽい、ぽい。ついに誰かが投げた皮が通行人の頭に命中。 怒っていたけど、みんな気にせず、続けてぽい。

街中には、ムセベニ大統領の広告があちこちに。カウボーイみたいな帽子がトレードマークのおじさん。25年も大統領やってます。ちなみに前々回の大統領は、あのアミン大統領。人食いアミンで有名なあの人。当時は大変だったろうけど、今はすっかり平穏な街のカンパラ。

ピグミー族

ピグミー族をご存知でしょうか?
世界でもっとも平均身長の低い種族の人たち。主に狩猟生活を行い、多くが中央アフリカに住んでいる。

彼らの集落を訪ねてみた。かなり山深いところにある。近くの村でバスを降り、集落を案内してくれる人に連れてきてもらった。別の民族の集落の一角に彼らは住んでいます。泥でできた家や茅葺だけの家の中から人々がでてきました。たしかに大人でも150cm以下。酋長(キングと呼ばれていた)は140cmもない感じ。 僕を見ると、客人として迎えてくれ、キングの横に座らされました。と、挨拶をする間もなく楽器を売りつけてきたのに、少し驚き。いろいろ家を案内してくれけっこうきさくな人たち。

写真もどんどん撮れとうながしてくる。

集落で育てている大麻の葉を見せてくれた。病気の治療や儀式に用いるという。
子どもたちは半分が服を着ていない。つまりフルチンだ。おなかがポコンと飛び出て、みんなすごいデベソ。そして彼らのペニスに割礼を行った形跡が残っていた。まだ習慣があるようだ。

しかし、村人全体に漂う、無気力と無関心。この重苦しい感じはなんだろう。

狩猟民族とはいえ、周りの森はどこも保護区になっており、狩はできない。ほそぼそと食料を植えて、池で魚をとって暮らしている。体は小さいが、筋肉はたくましく、木陰から弓を引く姿が見えてきそうな彼らに、農耕生活は合わないだろう。さらに、政府や他の農耕民族からの迫害が行われた歴史もある。大人の男が、昼間から酒を飲んでいる姿が多々見られた。

ここは地元のNGOが生活をサポートしている。僕もNGOの案内人に1000円ほど払ったが、これが集落全体にいきわたる。しかし僕が来る前は2週間誰も 来ていない。もちろん周辺には働きに出るところもない。現在98人が暮らしているというが半数は子どもで、徐々に数は減っているという。さらにHIVの感染数も多い。これはピグミー族の女性とセックスをすると腰の病気が治るという俗信がいまだに残り、近隣の男性との無防備なセックスがHIVや各種の性病を広がらせている。病気なのだろうか、家の前のゴザで寝転がったまま起きない女性が数人いた。

生活、病気、子ども、大人、セックス、貧困。それぞれの垣根が無く、混沌として、むき出しのままさらけだしていた。ピグミン集落。


こんなことを考えていると、なんだかいたたまれなくなり、日本の踊りを見せようと、カチャーシーを踊ってみせた。すると何人かの大人と子どもたちが興味を示した。マンデラという酔っ払いのおじさんは、真似をして踊り、やたらと抱きつき、仲良しの挨拶の頭突きまでしてきた。
かばんの中からバナナチップの袋が入っていたので、みんなにあげようとすると、一気に歓声が沸く。くれくれくれー。大人も子どもも。どこにこんな元気があったのだろうかと思うくらいだ。
マンデラの制止を振り切って帰ろうと、みんなに手を振ったがほかのみんなはすでに僕に無関心だった。うーーん。

ちょっとほろ苦い、ピグミー体験。

ウガンダ、ビクトリア湖

学校の休み期間を利用してウガンダへ旅行してきた。キガリから飛行機で45分。

ウガンダはルワンダの北側と接する隣国。ルワンダの数倍大きい内陸国で、ビクトリア湖の一部を内包する。

ビクトリア湖には行ってみたいと思っていたのでエンテベ国際空港からさっそくフェリーに飛び乗ることに。

その大きさはまるで海のよう。波の立たない緑色の湖面がどこまでもひろがる。赤道の太陽に照らされた水面は強烈な光の反射をかえす。浮き枝や浮き草の上で羽を休めるアフリカ水鳥は、フェリーが近づくと重そうな体をゆすって飛び去ってゆく。

のんびり進むフェリーの中は、多くのウガンダ人がひしめきあっている。甲板でのんびりと湖を眺めているとウガンダ人が話しかけてくる。一見無愛想だけど、彼らはとても気さく。あくびをしたので脇腹をつついてやると、へへへと照れ笑い。なんかルワンダ人みたい。



でも顔つき体格がルワンダ人と全く違う。ずんぐりむっくりの大柄の体型で、鼻が平べったい。話す言葉は、バントゥー語系のルガンダ語なのでルワンダ語になんとなく似ている。

ビクトリア湖はナイル川の源流といわれている。ここからエジプトまで流れてくのを想像すると気が遠くなるほどの道のりをたどるのだなあと水に感心。ちなみにこのビクトリア湖、泳がないほうがいい。住血吸虫にやられる危険性があるのです。感染すると血管に住み着くおそろしい虫。こわい。


これ、記念すべき海外10カ国目。
学生のときタイを一人旅して以来、インド、中国、アメリカ、メキシコなどを巡り歩いてきました。一回の旅で一カ国が基本なので意外と少ないかも。協力隊になってから、ルワンダ、ケニア、フランス、モロッコと旅行してきました。ちょっと達成感。

2011年11月13日日曜日

東アフリカの飢饉

東アフリカにあるアフリカの角と呼ばれる地域で、過去60年間で最悪の干ばつが起きています。

特に被害が大きいのがソマリアです。ソマリアは前政権の崩壊以降、事実上の無政府状態が続いています。さらに最近ではアルカイダ系の組織がケニアと交戦を行っており非常に不安定な地域でもあります。

JICAのHPで飢饉の様子が伝えられているので興味のある方は是非。
http://nantokashinakya.jp/projects/africa/

2011年10月28日金曜日

大新聞社の世論誘導

僕の敬愛する作家が原発報道をするマスコミに対して苦言を呈していた。僕もまったく同じ気持ちを抱いており、やはり書かなくてはと思った。


まずは、以下の二つの新聞社の記事を読んでもらいたい。
http://www.asahi.com/national/update/0919/TKY201109190278.html
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110919-OYT1T00532.htm

どちらも先月、新宿で行われた「さよなら脱原発」集会の様子を伝えたものだ。この扱い方の差は歴然としている。


一つ目の新聞社はやや脱原発寄りの意見をもち、二つ目の新聞社は昔から原発推進の意見で有名だ。僕は、新聞社にそれぞれの意見・主張があるのは当然だと思う。だがそれは、社説で展開するべきだ。


しかし一般ニュースは事件を客観的に扱う場であるべきだ。ノーベル賞作家と6万人もの人が新宿でデモ行進を行ったという事件が、わずか十行の文章と一枚の写真で終わるものではない。この新聞を購読している読者がこの短い記事を見れば、読み飛ばしてしまうか、たいした出来事ではなかったのだなと考えてしまう。


これは明らかに、世論誘導だ。


読者は、事件に対して、記事を読み、自ら判断して、自分の意見を作るのに、記事自体を見えなくしては、考えることもできない。


これはどの新聞社にも同じことが言えるだろう。自分の意見と食い違う運動があれば、それを矮小化して伝える。当然、その逆もしかりだ。
僕は高校生のころから新聞を読むのが好きだった。 政治家とは距離を置いた、厳格な客観性を信用してきたからだ。だが、今回の原発事故で大新聞社の卑劣さがよく分かった。残念ながら、若干遅すぎた気もするが。

2011年10月26日水曜日

タイヤころがし

昔の日本なら男の子の遊びといえばメンコ、ベーゴマ、相撲ってところでしょうか。

アフリカの男の子の遊びといえば、やはりこれ!タイヤころがし。
捨ててある自転車や荷車のタイヤやホイールを、木の枝で転がすもの。

テレビや写真でも見たことがある人も多いのでは。


でも、これ単純そうで難しい。舗装された道なんか無いので、ボコボコの悪路を手先で器用に操りながら進むのです。しかも駆け足で。学校に登校しながら、ころころ転がしてます。

僕もやってみたけど、まったく転がせない。右へ左へと行ってしまいます。

将来タイヤころがし世界大会が開かれたら結構おもしろいかも。

2011年10月24日月曜日

伝統的結婚式

受付の女の子
ルワンダの伝統的結婚式である交渉式(Negotiation Ceremony)なるものにも出席しました。こちらは先月に行われた同僚のムペンジくんの結婚式です。

ルワンダでは伝統的に、新郎が新婦の家族に牛を渡す習慣があります。

緊張の面持ちの新婦側
まず新婦の実家の前に大きいテントが張られ、右に新郎側、左に新婦側の親族や友人が座ります。10メートルぐらいの距離を置いて、前列に年配の親族が向かい合って座ります。

新郎の家族の年長者がいかに新郎は新婦にふさわしいかを訴え、それに対して新婦側の年長者もいろいろ疑問を返すのです。そして新婦側の親族に認められると、新郎の家族は結納金として牛を渡します。新婦側が牛の質をいろいろ見定め納得したら、初めて結婚が認められるのです。
詩を歌う羊飼い

新婦側は牛のお礼に、「羊飼い」を呼び、いかにこの牛が素晴らしかったかを詩の形にして歌わせます。新郎側も「羊飼い」を出し、そのお礼をします。

踊り子とともに新婦が登場
ついに、それまで家の中にいた新婦が初めてみんなの前に出てきます。新郎のもとへ歩み寄り、中央の席に一緒に座って、晴れて二人は夫婦として認められます。めでたしめでたし。
二人は晴れて夫婦に


交渉を聞いていると、真剣なようでジョークを交えて話すので、みんなにこやかです。さらに歌やダンスも混じり、一種のエンターテイメント。また現在では、実際に牛をもらっても農家以外は困るので、牛の代わりにお金を渡す場合が多いようです。

このセレモニー、あまりお目にかかれないのでラッキーでした。 やはり牛とルワンダは切っても切れないもの。一家にとって重要な財産なのです。

2011年10月23日日曜日

結婚式


同僚エマニュエルくんの結婚式へ出席した。

今回は教会での結婚式と、披露宴。

教会で奥さんの洗礼式も一緒に行われた。新婦は水がめから汲んだ水を頭から掛けられていた。案の定ウェディングドレスがびしょびしょに。やりすぎでしょ。


披露宴。だれでも入場可能。
式は神父の話から始まり、誓いの言葉、指輪の交換という基本的なもの。

そのあとは披露宴会場に行って、パーティー。世界共通ですな。でも、関係無い人も勝手に会場に入ってジュース飲んでます。問題ないみたい。めでたい席にはたくさんの人に来てもらいたいみたいで、多いときは1000人ぐらいになるとか。



洗礼式。ドレスがびしょびしょに。

2011年10月21日金曜日

カダフィの死

カダフィが殺害された。

この10年で、欧米諸国の関与によって殺害されたリーダーは、イラクのフセイン、アルカイダのオサマビンラディン、そしてリビアのカダフィ。

3人とも無差別に人々を殺害してきた、だから殺されて当然という理屈だ。

今回の出来事に、同じアフリカのウガンダの新聞では「カダフィ体制の崩壊に、沈黙をもって応える」とでている。僕はこれがアフリカ人の心象をよくあらわしていると思う。

アフリカ人としては、決して喜ばしくもなく、かといってカダフィに対して喪に服するわけでもない。納得いかないし、釈然としない。

アフリカ人の問題はアフリカ人で解決するのだという気持ちが彼らには強い。他国へ介入を繰り返す欧米への不信感がどんどんつのっているのではなかろうか。

2011年10月19日水曜日

アメリカと中国どっちが好き?

昼ごはんのとき、TCT(トゥンバ高等技術専門学校)の先生や職員に聞いてみたら、みんな「中国が好き」と答えていた。

ちょっと意外。


灌漑用水路を整備するルワンダ人。中国人が指導している。
アメリカは援助の見返りにアフリカの内政に干渉してくるけど、中国は純粋にビジネスとしてアフリカに投資しているからというのが理由。


現在、中国は石油や天然資源の確保のため、アフリカの多くの国で道路整備やビルや役所の建設を行っている。ルワンダの道路も多くが中国人によるものだ。それらの見返りに石油や天然資源をもらうのだ。


キガリを歩いていると、中国人と見分けがつかないため、僕ら日本人は、「シノワー(中国人)、チャンチャン!」と知らないルワンダ人から馬鹿にされます。正直、ムカつきます。たまに胸ぐらも掴みます(笑)。

その経験からルワンダ人やアフリカ人は中国人が嫌いなんだろうと思ってた。勝手に人の国に来て、資源を持っていくんじゃない!と思っていると感じていた。アメリカやヨーロッパ寄りの考えをもつ僕らから見ると、中国のアフリカ進出は脅威に移るし、紛争のもとになる武器も持ち込むので歓迎できない。ダルフールや東コンゴの紛争では中国製武器が流れてきたそうだ。


しかし、アメリカやヨーロッパも圧政開放を名目に搾取が進んでいる。むしろこちらのほうが被害がひどいかもしれない。イラクやリビアに対して行っていることは明らかに石油の搾取が目的である。リビアでは反体制派を支援しなかった中国やロシアに対して、石油利権の分配から外されているという。

残念なことに、日本の企業もすでに戦争後のイラクやリビアでの石油採掘権利を融通してもらっているそうだ。もちろん欧米側にいるからだ。企業活動や日本のエネルギーの確保の上ではやむをえないかもしれないが、恥と良心に照らせば真っ当な人間のすることではない気がする。このために何人のイラク人、リビア人が殺されたのだろう。

援助合戦、欧米対中国。少なくともアフリカ人の目からみれば、中国に軍配が上がっているようだ。

2011年10月18日火曜日

sawa sawale

いま、アフリカの音楽シーンで一番熱いのが、Flavourという歌手のnwa babyという曲。

西アフリカのナイジェリアでヒットし、現在ルワンダを含めた東アフリカ地域でも毎日流れているのがこの曲です。街を歩くと、「サワ、サワ、サワレ~」とどこからとも無く聞こえてきます。

これまでにもいろいろなアフリカ産のポップミュージックを聴いてきましたが、大半は残念なレベルだけど、これはイチオシ。日本のクラブでも十分耐えられる質だと思います。

上のはリミックス版ですが、オリジナル版もあります。こっちもなかなか。

東アフリカ地域で使われるスワヒリ語の「サワサワ」は、OK!の意味。親しみやすいフレーズだからか、みんな口ずさんでます。僕もけっこう歩きながら歌ってます。

ミュージックビデオはいかにもアメリカっぽいけど、アフリカ人もやっぱり黒人系ヒップホップが大好きなので影響が出ているのです。

ナイジェリア音楽、目が離せません。

2011年10月16日日曜日

虐殺教会の記憶

赤ん坊たちは壁に叩きつけられた。
子供のノート。日付は94年2月で終わっている。

キガリより南へ30kmほどのところにニャマタという地区があります。ここは1994年のジェノサイドがルワンダで一番初めに起こった地域であり、ツチ族とフツ族の対立がもともと激しかったところです。

ニャマタの教会では1万人以上が殺されたそうです。その多くが地域住民。老若男女が狭い教会の敷地に入り、教会ならきっと安全だろうということで身を寄せていたのです。ルワンダ人の大多数はキリスト教徒であり、以前よりおこなわれていた小規模の虐殺では、教会に逃げ込んだ人は助かっていたそうです。

だけど1994年の虐殺は種類が違いました。軍人は人々ですし詰めの教会に手榴弾を投げ込み、民兵のインテラハムウェは鉈で生き残った人々を切り裂いたそうです。生存者はわずか数人。現在、殺害された人々の着ていた服が教会の椅子に積み上げられています。

地下の展示室には数百個の頭蓋骨がならんでいました。棍棒で陥没させられた跡、鉈で切られた跡が残っています。2つの暗い眼窩の底から、鉈を振るわれる瞬間の恐怖の記憶が見えてくるようでした。案内してくれた協力隊員は、ニャマタを訪ねた日本人をこの教会に案内するのはルワンダでの自分の使命だと思う、と言ってました。

この出来事は決して風化してはいけない、遠いアフリカの出来事だと片付けられない気がします。なぜなら風化と無関心こそが為政者の暴走を許すからです。ルワンダの虐殺は政府による誘導といわれています。
 
以前も紹介しましたが、ルワンダでは毎年4月7日よりジェノサイドウィークという、国民が喪に服する期間があります。80万人の犠牲が出たこの出来事を風化させないため、学校やマスコミでも様々なイベントが行われます。同じことが起こらないように、人々は真剣に討論し、本気で涙を流しなら当時のことを振り返ります。

 日本も66年前に多大な犠牲を出した戦争がありました。しかし日本の終戦記念日は、徐々に風化しているように思います。真剣に議論する人もマスコミもあまりいません。自衛隊の強化を前提とした憲法改正運動が起こるのも、 原爆が投下された国でありながら原発が推進されたのも、日本人が大戦の記憶を忘れてしまったからではないでしょうか。600万人の犠牲を出してまで学んだことは一体何だったのか。

ルワンダから学ぶべきことが、日本には大いにあるように感じます。

2011年10月9日日曜日

一日一ドル以下の生活とは

トゥンバの道端に穴が掘ってあり、雨季になるとここに水が溜まるのです。ご覧のとおりとても汚い。

実際には歩いて3分のところに豊富に水がでる水道がきているのです。じゃあ、なぜこんなことをする必要があるのか。実はこの水道やはりタダではないのです。ポリタンク一杯40フラン(5円)。親はこのお金が払えない。

 
平均的な農民や荷担ぎの手取りは一日500フランぐらい。一ドルにも満たない。国連でいうところの最貧困層だ。


しかし、ルワンダでは多くのひとは飢えてない。写真の子供はピンピンしているし、学校にも通い、毎日サッカーをしている。親は畑で自分たちの食料を育て、中古だけど携帯電話もある。上の写真と一ドル以下の生活という言葉だけが独り歩きすると、ルワンダを見る目が偏ってしまう。


僕がルワンダに来て、気づかされたことがこれだ。自給をしている点は国連の統計には入っていない。だからトゥンバの生活はソマリアやコンゴと統計上一緒なのだ。


何を考慮にいれなければいけないのか。それは国、もしくは地域が平和かということだ。ソマリアやコンゴのように子供をさらう武装集団も、無差別のテロも無いこと。そして安定した気候。僕らにとって当たり前のことだし、今のルワンダでも当たり前のこと。安定した食料があること、安心して出歩けることだ。


だけど、ルワンダ人の生活は、安泰かというとそうではない。平和が無くなると、とたんに脆くなる。誰も守ってくれ無い。政府も機能しなくなってしまうかもしれない。トゥンバには警官もいない。貧困とはつねに死と隣りあわせであることであることも、やはり忘れてはならない。一日一ドル以下の生活とはそういうことだ。

2011年10月6日木曜日

砂漠の魅力に・・

有名なアトラス山脈を越えて、サハラ砂漠へ向かった。

途中、奥さんが酔ってしまうほどのうねうね道をバスで4時間。さらに4輪駆動車で7時間ほどでサハラ砂漠の入り口へ。さらに1時間半かけてラクダでキャンプ地へ。


生まれて初めて砂漠を見た。
広がる砂漠は、まるで荒れ狂う海がそのまま砂の形で固まったよう。

サハラ砂漠

キャンプを夜に抜け出し、ゴミひとつ見当たらない清浄な砂がどこまでも広がっている。その無限とも思える景色のなかに自分がポツリとたつ感覚に、吸い込まれそうになる。


砂に寝そべり、顔をつけてみる。
深い砂の底からひんやりと伝わってくる冷たい無機物の世界が、僕に戦慄を起こさせる。だけど動きたくなかった。そのまま朝がくるまで、そこにいてもいいと感じた。


砂漠がこんなにも僕を惹きつけるとは思わなかった。また行きたい。

2011年10月3日月曜日

モロッコ旅行

雑貨市場にて
8月に奥さんとモロッコで再会しました。今回は7ヶ月半ぶり。
うーん、長かった。今回は僕がイスラムの国へ行きたいという希望でモロッコに。



モロッコとルワンダは同じアフリカとはいえ、北アフリカと東アフリカ。人種も宗教も気候も全然違う。アラブ系の白人、イスラム教、そして暑い。さらに砂漠なので飛行機からは緑がまったく見えなかった。


僕らはちょうど断食月ラマダンのときに訪れたのだ。ラマダン中は日中は食べることも飲むこともできない。だから昼ごはんを食べに街中へ出ても旅行者さえもなにも食べられない。せいぜいミントティー。ホテルで朝食は出るので、そこでお腹いっぱいにして日暮れ(19:30ごろ)まで我慢。モロッコ人も元気ない。
カサブランカの大モスク


そしてウーという日暮れのサイレンが鳴るとモロッコ人はあっという間に通りからいなくなる。まさに人っ子ひとりいなくなる。そして30分後、お腹がふくれたのか陽気になった大勢のモロッコ人が街にくりだしお祭りのようになり、明け方までつづくのだ。このギャップが楽しい。翌朝になるとまたモロッコ人は元気が無くなる。


賑わうマラケシュのヘナ広場
この時期は旅行を勧められないと旅行会社に言われたけど、そんなことは無かった。十分楽しい。要は国の雰囲気をそのまま受け入れること。不便なことも、この国でしか味わえないことなので、それはそれで楽しかったなあ。

2011年10月2日日曜日

近所の子

空き缶で料理する子供たち
近所の子供は、よく家の敷地に(勝手に)入ってきます。そして(勝手に)いろいろと手伝ってくれます。


炭の火おこしを手伝ってくれ、皿洗いもやってくれます。もうちょっと大きい子は、金くれ、チョコくれとやかましいですが、ちいさい子たちは好きで手伝っているようです。

水をくれと言ってくる子供たち
僕が料理を作り終わったあとの炭を使って、彼らもおなかがすいたのか料理していました。これがなんともかわいらしい。小さいトマトペーストの空き缶に小さく刻んだ芋をゆでていました。ふたりで食べるのかな。

しかし、僕が料理を作っている間、鍋をじーっと見つめられるのはちょっと嫌。彼ら、ちょっと臭うし(笑)。

お久しぶりです

またもや更新をさぼって早3ヶ月以上。ごめんなさい。
別に病気や怪我もなく、ただ普通にサボってしまいました。
更新楽しみにしてくださった方、これからガンガン更新していきます!

わたる

とうもろこし

トゥンバの隣村マレンボで焼きとうもろこしが売っていた。一本100フラン(15円)。

同僚がおごってくれた。なかなかおいしい。トマトとピリピリ(トウガラシ)のソースがうまい。

しかしこの屋台、ぼろい。団扇は水を運ぶジェリ缶を切ったものだし、炭火台も錆だらけ。 電気もきていないこの貧しい村では、むしろ似合っているのか?おじさんはいい人だった。

2011年6月27日月曜日

経済原理主義

僕の友人を含め、いま日本に住んでいる大多数の日本人は原発に反対のようだ。徐々に大きくなっているようで、一安心。一刻も早く原発を無くしてもらいたいものだ。いまだ賛成なのは、利権に貪欲な政治家と官僚、そして財界だけだろう。皮肉にも彼らが国の方針を決めるのだから、国民不在の国政といわざるを得ない。


原発事故直後にも関わらず原発推進の世論が大きかったのはなぜだろう。きっと僕らが、普段から経済第一主義を叩き込まれているからだろう。つまり原発が無いと日本経済は回らなくなり、ますます経済が悪化してしまうという漠然とした不安が、原発推進の世論を4割近く留まらせていた理由のひとつだと思う。


ある作家が言っていたが、タリバンがイスラム原理主義なら、日本は経済原理主義にあたるという。 社会構造のみならず、僕らの生活の隅々までお金が入り込んでいる。全てが経済優先社会だ。


ルワンダ人も豊かな国になりたいと言う。だけど、内戦で苦しみ両親をなくした辛さをしっている彼らが言う豊かさは、平和の上に成り立った「平穏」な豊かさだ。ルワンダは四国の1.5倍の面積。原発事故が起きれば、国がまるごと消滅しかねない。そんなルワンダが、原発なんか置くだろうか。そんな危険を冒してまで、回す経済とは一体なんだろうか。彼らの言葉を借りれば、それらはサタンだ。

2011年6月23日木曜日

もう黙っていられない。

ヨーロッパでどんどん脱原発が進んでいる。
原発大国であるフランスで大きな原発反対運動が行われ、フランス国民の8割は原発廃止を望んでいると報道された。さらに先日のドイツ国会では原発は完全に廃止されることが決定され、イタリアも国民投票で原発は作らないことになった。


だが日本を見ると愕然とする。世論調査のなかで、日本が原子力発電を維持するもしくは推進するべきだという意見は少なくとも4割近い。青森県では先週の知事選で原発を推進する知事が再選された。政治は国民不在で内紛している。

国会での首相降しは、せっかく原発を無くす方向へ動いている(ように見える)管首相を引き摺り下ろし、原発推進を進め利権を確保しようとする政治家が次の首相を狙っている。もともと民主党は原発推進政党だから当然の動きなのかもしれない。


一体、日本はどうなってるんだ?


この3ヶ月間、福島原発周辺はどんどん汚染が進んでいるというのに。まだ愚かなことを繰り返そうとしているのでしょうか。



だけど、もう黙っていられない。
ルワンダから怒りをこめて。

2011年6月22日水曜日

日本文化

授業でたまたま時間が余ったので、生徒に折り紙を教えてみた。

作ったのはツル。なかなかみんなきれいに折れてました。ルワンダにも簡単な折り紙の文化があり、小さい子が箱や紙鉄砲などを作って遊んでいます。

協力隊も後半戦になったので、授業以外にも出来ることを探していこうと思っています。その第一弾が日本文化の紹介。TCTの図書館にミニ日本コーナーを作ってみました。先日大使館でもらってきた日本紹介のパンフレットやDVDを並べて、いまは様子見。ちらちらのぞいてみると日本食紹介のDVDがみんなのお気に入りらしく、いつも無い。ほほう。

2011年6月21日火曜日

またまた新学期スタート

またもやブログの更新ができませんでした。また新学期が六月からスタートしてしまったからです。。しかもスケジュールが変わって学期間の休みが無くなってしまった。

今学期は本当に忙しい。去年の電話の授業に加え、プログラミング(C言語とVB)とマイクロコントローラも教えることになってしまった。週4日の授業はちょっと辛い。けど、やるしかないなあ。

苦戦しているのがプログラミングの授業。
 まず生徒のタイピング速度が遅い!ぎこちなくポチポチとキーボードを打っているのを待っていると、時間がいくらあっても足りないです、はい。
つぎに記憶重視のルワンダ教育で育った生徒を、どのようにして論理的思考が求められるプログラミングに慣れてもらうかが課題。まだ始まったばかりなので彼らがどの程度適応力があるのか未知数。

電話の授業は2回目なので、なかなかいい授業が出来てきたかな。

たぶんこれが最後の授業になるかもしれない。自分が作った資料をしっかり残して、後任のルワンダ人が使ってくれることが僕がこの国で貢献した証になるのでしょう。と、考えると結構重要な学期なんだなあと感じます。

2011年5月25日水曜日

美しく黒い肉体

日曜日、首都キガリでマラソン大会があったので参加してきた。ルワンダ政府とソロプチミストというヨーロッパ系の援助団体の主催だ。
http://www.kigalimarathon.com/CMSPage.aspx?lng=EN&content=103


当日はうすい雲が太陽を遮り、雨も降らずなかなかよいコンディション。
参加者は総勢2500人でルワンダ人とムズング(白人)がほとんど。


僕はマラソンというものは生まれて初めての経験にも関わらず、事前に練習もしない無謀な参加者。案の上、一緒に走った協力隊員の中でビリ。ハーフマラソン(20km)で3時間かけてなんとか完走できたけど、ひどい筋肉痛でいまだに足を引きずっている。


でも走ることは楽しかった。まったく知らない人とお互い励ましあったり、水を分け合ったり。さらに途中でもらう、ルワンダバナナのおいしいこと。


フルマラソンの結果はマラソン王国ケニアからの参加者が上位を占めたが、3位にはルワンダ人ランナーも。僕は走っている間、何回も彼らの背中を見送ったがその度に見惚れてしまった。


黒人ランナーの集団が駆け抜けるときの風、熱い息遣い、その黒曜石のように輝き引き締まった肉体。彼らはただのランナーだけでなく、美しく魅了する一塊の黒い肉体だ。


マラソンランナーだけではない。スコップを使い道路工事をしている、上半身裸のルワンダ人も引き締まっている。キブ湖の漁師もすごい。いや、普通の人もすごい。日本人なんか全くかなわない。野性味溢れるその肉体こそ、アフリカだ。

2011年5月10日火曜日

毒虫にやられた・・

朝起きたら顔がひりひりして左の頬が薄く赤く腫れていた。
なんだろうと思っていたけどたいして気にしていなかった。

ところが翌日に目を覚ますと、頬の半分が真っ赤に腫れてさらに水ぶくれが全体に広がっていた。鏡の前で、おもわず叫んでいた。「ぎゃー」。
ヤムチャ

あわてて山を降りてキガリの病院へ行くと、
「あー、これはヤムチャだね。」
「ヤムチャ?」
「寝ているときに、赤と黒の虫に触らなかった?」

ヤムチャだらけの天井
なんとなく覚えがある。てっきり蚊が来たものと思って叩いたけど、それがいけなかったらしい。日本にも生息するアオバアリガタハネカクシに触ったらしい。こいつは、体長1cmぐらいの蟻に似た虫で体が赤と黒の警戒色を持っている。体内に猛毒をもっていて皮膚に付いたらひどい炎症を起こし、別名やけど虫というらしい。キニャルワンダ語でヤムチャ。

この虫、ここ数日大発生していたのだ。窓の外には数百匹がうようよしていてのだ。しかもたった一匹でここまで酷くなるのだ。

医者からCetavlonという火傷の塗り薬をもらってガーゼをあてる。ルワンダ人は一目見るだけで、ヤムチャでしょとずばり当てる。それほどポピュラーらしい。生徒もヤムチャ、ソーリーソーリと言う。なんか恥ずかしい。

4日目ぐらいまでが一番酷かった。このまま治らないのかなあ・・、とちょっと不安に駆られた。
今日でとりあえず8日目、なんとか治ってきたけどまだ赤みが残っている。恐ろしい。

みなさん、ヤムチャには気をつけてください。

2011年5月2日月曜日

東日本大震災 慰霊碑

先週首都のキガリで、東日本大震災で亡くなられた方々の慰霊碑の前で、手を合わせてきた.


ムリンディジャパンというルワンダにあるNGOが、4/15-4/22まで被災者のために喪に服し、当日は慰霊碑の前に花を添えるセレモニーを行うというので参加させてもらった.NGOの敷地には多くのルワンダ人と協力隊員が集まった.



日本から遠いルワンダの地にいて、いままで震災に対して自分は蚊帳の外だなあと感じていた.
だけどこの日、慰霊碑の前でゆっくりと手を合わせ目をつぶり、被害に遭われた方の冥福を祈ることで、初めて日本人として東日本大震災に向き合えた気がした.



隣に座ったルワンダ人が、
「日本も津波で多くの人が亡くなった.ルワンダも虐殺でたくさんの人が亡くなった.私達は一緒になって、この気持ちを分かち合おう.」
と言ってくれた.僕の下手なキニャルワンダ語だから単純な言葉だけしか使えないけど、だからこそ相手の気持ちがよく伝わった気がした.



このNGOはルワンダの内戦などで障害を負った人に義足を作る支援をしています.主催者は吉田真美さんとご主人のガテラさん.1997年からルワンダを中心に活動を続けています.

ムリンディ・ジャパン ワンラブ・プロジェクト
http://www.onelove-project.info/index.html

2011年4月22日金曜日

腹減った

中国製ラーメンとメンマ。

いつも、いつもアフリカ食、ルワンダ食。
みんなに隠れて部屋でこっそりと別のものが食べたくなるのです。

ある日は、中華食材が売っているT-2000(フランス語でテードミル)で買った中国製のラーメンとメンマ。辛くて味が濃いけど、うまい。ずるずる。
またある日は、韓国の辛ラーメン、などなど。


そして先日は妻から 、なんと5kgもの日本米が送られてきたのだ!
さすがに飛行機を使った国際郵便のEMSでは数万円かかるので、今回は数千円で送れる船便を使ったそう。


だけど、海路と陸路を通る船便は極めてリスクが高い。日本を出て、シンガポールからインド洋を抜け、ケニアかタンザニアに陸揚げされ、そこからおんぼろのトラックで砂煙を上げながらルワンダまで運ぶのだ。その間、たくさんの人間に触れられる。特に日本からの荷物ということでみんなの興味を引くのは間違いない。

日本米とレトルト牛丼。奇跡!
そんな、危険を潜り抜けてきたミカンのダンボール箱は、すでにボコボコにへこんでいたけど無事にたくさんの日本食材とお米を満載して僕の手元に着いたのだ。送り出してから2ヶ月たっていた。

さっそく、炊いたササニシキ。1年3ヶ月ぶりの味。
うまい!ご飯があまい。これだけで食べられる。 次はインスタントの味噌汁と一緒に。これまたうまい!三杯目はおかゆにして、塩昆布で。またまたうまい!

やはり、自分の舌はそう簡単には変わらないものですなあ。

ありがとう!

2011年4月21日木曜日

慈善だろうか?偽善だろうか?

先日、難民キャンプを案内してくれたシャロームから電話があった。
「メールを書いたから読んでくれ。」

内容は、父が集めてくれるお金だけでは、高校の学費が払えない。ぜひ僕に援助してほしい。今学期の学費40000Frwが必要なんだ、というものだった。

僕は90%の確率でお金をくださいということを言われるだろうと思っていたが、案の定だった。
僕は電話口で、援助を断った。

40000Frwなんかたったの6000円でしかない。今後3年分払ってもせいぜい54000円。これだけのお金で彼は高校を卒業できるのだ。

だけど、あげたくない。
だけど、葛藤がある。


二つ返事であげてしまうと、僕達ムズングは単なる金づるでしかない気がしてならない。そして、あげたら最後、次々に別の仲間が俺にもくれと言ってくるだろう。そもそも本当に学費に使うのか分からない。父親の酒代に消えるだけかもしれない。

また、あげたときの自分が嫌でならない。彼を援助して自分が英雄気取りになるのが許せない。たった一人を救って何になるんだというむなしい気持ちにもなりそうだ。

だけど、目の前で困っている人がいるのも事実。そしてあんなに僕に親切にしてくれた彼のことをこんな形で見捨ててしまうのはなんと罪なことか。

どうすればいいのだろう。

2011年4月20日水曜日

追悼の炎

井形に組まれた大きな薪に火がつけられた。


4月8日、虐殺された人々を偲ぶ集会が行われた。虐殺週間中もっとも大きい集会だ。


文化省の大臣、軍の将軍、郡長などが出席しそれぞれ虐殺を繰り返さないことを誓い、その後虐殺によって両親を亡くしたTCTの卒業生が鎮魂の歌をうたった。


虐殺が行われた政治的な背景を、学生が劇として演じた。ツチ族とフツ族は仲良く暮らしていたが、政治家が引き裂き、互いを殺すように仕向けたという内容だ。


そしてフツ族がツチ族を殺す場面が演じられたその瞬間、
「イウェー!」
と、動物の叫ぶような声が後ろから聞こえた。
はっと振り向くと、女の人が顔を抑えてうつむいている。


すぐに周りの人が両脇から抱えて会場の外へ連れ出した。
だが女性は叫び声をあげながら、もがき、壁をたたき、いつまでも泣き叫んでいた。


衝撃だった。
否が応でも、この国で本当に起こった出来事なんだ、と思い知らされる瞬間だった。


そして同時に津波に飲み込まれていった人たちのことを考えた。 すべてを飲み込んだ壁のような津波が、次々と人々を飲み込んでいく様を。


僕は呆然と立ちつくしてしまった。言葉にならない悲しみは、いつでも世界中で起こっているのだ。死や悲劇は決して自分と離れたところに起こるわけではない。


歌い終わった卒業生が、当時の様子を淡々と語る。
「私の母は、男達に殺されました。目の前で両腕を切り落とされ、足を切断され・・」
隣で僕に解説してくれた学生が、これ以上言葉を見つけられないよと言った。僕はそのまま卒業生の顔を眺め続けた。


パチパチとはぜる炎が人々の顔を照らし、白い煙とともに夜の闇にに吸い込まれていった。
息の白い、寒い夜だった。

2011年4月7日木曜日

虐殺週間

横断幕。虐殺とツチ族の文字が。

今日4月7日から13日まで、虐殺週間(ジェノサイドウィーク)が始まる。

1994年4月6日夜に大統領の乗った飛行機が撃墜されたのをきっかけに、翌日の4月7日からおよそ3ヶ月間にわたりルワンダ全土でツチ族と穏健派フツ族に対する虐殺が行われ、80万人近くが犠牲になった。

その痛ましい歴史を繰り返さないためにも、この一週間ルワンダ国民は喪に服す。 各地では虐殺関連の公演や討論会、映画の上映が行われる。

今日はその初日ということで、正午からポールカガメ大統領がラジオやテレビを通じて虐殺を繰り返さないことを訴えた。

トゥンバ高等技術専門学校(TCT)でも食堂に教員や学生が集まり、皆が沈痛な面持ちで話を聞いていた。

17年前に起きたこの事件、TCTの学生ならば5歳前後だろう。両親や兄弟、親戚が殺された話はあちこちから聞く。トラウマを抱える学生も多い。

これから1週間、ルワンダ国民は過去の痛みと向き合っていく。

2011年4月6日水曜日

中間試験

最近、ちゃんと活動やってるの?という問い合わせが。
全く活動報告をしていなかったけど、ちゃんとやっています(笑)。ただマンネリな内容かなと思ったので載せてなかっただけでした。

今semesterでは、AnalogElectronicsという授業を教えています。 とても基礎的な内容で、抵抗やらトランジスタなどの実験を教えてます。ついでにオシロスコープなど測定器の使い方も。

そこで今日は中間試験で、測定器の使い方の試験をしました。学生に一人一台、アナログテスターとオシロスコープを渡し測定をやってもらいました。

こういう試験はTCTでもたぶん初。ほとんどがペーパーテストの中、今回は手探りでやってみた。36人いる学生を限られた時間でいかに試験していくか、結構知恵をしぼりました。

テクニシャンやほかの先生に生徒の誘導などを手伝ってもらいながらも、なんとか全員の試験を完了。終わったあとはちょっと爽快感。彼らとビスケット食べながら、のんびり反省会などをやったりしました。

生徒の反応や先生の意見としては、時間が短いが大半。うーん。でも、ちゃんとできた生徒はいたからなあ。やっぱり時間を延ばして、追試やってみるかなあ。。でも、やらない奴はやらないしなあ・・。


と、こんな感じで毎日いろいろやってます。

p.s. 1年前と比べると、新鮮さが消え月日の流れるのがとても早くなってきました。こんなアフリカの奥地でも人間は慣れるものなのだなあと、しみじみ思う今日この頃。

2011年4月5日火曜日

難民キャンプ

昨日までルワンダ北部の都市、ビュンバに行ってきた。

トゥンバから西へ山道を越えることおよそ3時間。乗車率200%かつジェットコースターのような車中で、親切に席を譲ってくれた学生がビュンバにある難民キャンプに住んでいるという。僕は興味をそそられ翌日彼の住むところまで行ってみた。

Gihembe難民キャンプ
ビュンバはルワンダ第六位の都市で、それなりに栄えている。難民キャンプは谷を挟んだ向かいの山に白くきらきら光る建物が無数に広がっているところだ。徒歩で30分ほどで着く。

一歩難民キャンプに足を踏み入れるとよれよれの服と鼻水をたらした子供たちがムズングー!と駆け寄ってきた。泥土で作られた家々は密集し、屋根はUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のビニールシートがかけられ、雨をしのいでいる。狭いわりにやたらと人の数が多く、むき出しの道の上で大人は立ち話、子供たちはペットボトルやヤギをおもちゃに遊んでいる。


自家製ビールを売る家
このキャンプは1997年の隣国コンゴでの紛争を逃れてきた人々が住み着いたところだ。およそ14年が経ち、多くの子供がこのキャンプで生まれている。ルワンダと接する東部コンゴは内戦が激しく、政府のコントロールも及ばない地域だ。彼らもいったいいつ帰れるのか全くわからない。国籍もコンゴのままだという。

キャンプ内には学校や教会、病院もある。小さいが売店もある。食事は月に一回配られる国連からの食料で生活している。
だが難民の大多数は職が無い。せいぜい荷物を運ぶ荷役夫ぐらいで日当は400Frw(55円)。それだけでは暮らせないので、国連からもらった食料を貯め、近くの市場で売って現金を得ているという。

シャロームと母親
案内してくれた高校生のシャロームは、ルワンダ北西部の都市ギセニで勉強している。彼によると、高校を卒業したぐらいでは、難民キャンプの生活から逃れることは難しいという。大学以上を出ないとキガリなどでは働くことができないという。おそらく難民キャンプ出身で国籍もコンゴということも就職先を狭める要因になるのだろう。さらに以前はキリスト教系のNGOが教育費用を援助していたそうだが、今では撤退してしまったそうだ。

シャロームの友人のエリックの家にも行った。彼は両親が内戦で死んでしまい一人暮らし。粗末な泥の家だが、とても喜んで僕を部屋に招きいれてくれた。 彼は部屋の奥から小さいアルバムを取り出し僕に見せてくれた。彼はルワンダダンスが得意らしく、衣装を身に着け大勢の前で踊っている写真が印象的だった。
だが僕には、君は将来何になりたい、なんてことは絶対に聞けない。彼のアルバムを真剣に、できる限りの誠意を持って見ることだけが、そのとき僕にできた唯一のことだった。


人気歌手の絵を書いて遊ぶ
 ここでも子供たちは元気だった。本当に明るく、屈託が無い。都市の子供たちとは全く違う。歩くとすぐに20人ぐらいの子供たちが寄ってきて、僕の後ろに行列を作る。僕のかばんのアクセサリーが気になるようで、すぐ触ってくる。追い払うためガオーっと威嚇すると蜘蛛の子を散らすように逃げるのがとても楽しい。子供たちもうれしそう。たまに本気で追いかけ子供を捕まえると、顔をくしゃくしゃにして泣き出す。だけど周りの大人も子供も大笑い。僕もこんなに楽しいことは久しく無かったなあ。




帰るとき、ほんとうに名残惜しそうに見送ってくれた。かけがえの無い友人達に、また出会えたようだ。

2011年4月4日月曜日

ラジオ修理屋さん

トゥンバを散歩しているとき、呼び止められて何気なく入った家が、実はラジオや携帯電話を修理する家だった。ルワンダ人はラジオが大好きなので結構需要がありそう。修理代は1回300Frwぐらい(50円)。村に電気がきてないので、半田ごては炭火で熱して使っていました。バナナの木の下で、のんびりと半田ごてとテスターを使って修理している姿がとても印象的。またいい感じな一家に出会えた。

2011年4月1日金曜日

原発の心配をしてくれるのはいいけど・・

いつもへらへらしている同僚のルワンダ人が、突然真顔になり、
「日本は津波の影響で大変そうですね、お悔やみを申し上げます。あなたの家族は無事ですか?」
なんだか他人行儀で違和感があるけど、心配してくれてうれしい。


 アフリカでも津波の話題は広く知れ渡っていて、トゥンバの地元の人も心配してくれる。


実際、アフリカ地域のBBC放送でも震災から1週間は90%が日本の震災関係だった。
3週間が過ぎた今でも3割ぐらいは日本のニュースで、残りはリビアとコートジボワールの紛争(どちらもアフリカ)の話だ。


ただし最近はもっぱら原発のニュースが多い。もう"Fukushima"という言葉は誰もが知っている。
原発のないルワンダ人は日本は大変だねという。だが、原発のあるヨーロッパ人と話すとわれわれも気をつけなればと言う。同時に地震多発の日本になぜ原発なんか作ったんだ、とも言う。もっともの話で、言い返す言葉がない。


原発の見直し論議が世界中で上がっている。だが彼の発言を聞いて、この論調がいつまで続くか気になってきた。つまり地震や津波の多い日本が原発なんぞ作ったからこんな事故になったのであって、今回の事故は「例外」である、という話にもっていかれるのではないだろうか。


チェルノブイリの事故後も原発の怖さが広まったが、結局作業員の操作が悪かった「例外」であるという話でうやむやにして片付けられた気がする。そしてその後も世界中で原発が作られ、維持された。


東電の人たちは津波の高さが「想定外」だった、だから事故は起こってしまったという。なんだか「例外」である、ということを強調しているみたいだ。


原発に「例外」があっていいものだろうか?原発が作られ始めて5、60年近くたつ。スリーマイルを含めると、もう3回も例外を作ってしまったのか。


今作られている原発は最新の設計だから絶対安全だとも言う。だが信用できない。納期に追われた技術者は、設計上のつじつまが合わなくて無理やり設計の計算結果を変えてしまうかもしれない。1970年に作られた当時の福島第一原発も「絶対安全!」と言われていたはずだ。原発の数が増え続ければますます事故の確率は増す。


世界から原発を無くすか、20年に一回起こるであろう放射能事故に絶えながらエネルギーを使う生活を続けるか。僕たちは選択を迫られている。

2011年3月24日木曜日

第2回ロボットコンテスト

2回目のロボコンがキガリで開かれた。前回と同じ、ライントレースカーでの勝負。

今回は大学対決です。キガリのキチュキロ高等技術専門学校に生徒を呼び集め、金曜日と土曜日に集中講義とプログラムの改良を行いました。

ルワンダ国立大学の学生はさすがに頭がよく、楽々と課題をクリア。残念ながら我がTCTは出遅れ気味。集まった生徒の種類もさまざまで、女王様気取りの女学生(結構このタイプ多い)は、初めからやる気が感じられず、イライラ。


でも大会当日は、JICA職員の努力のおかげで立派な会場でもりあがりました。生徒も大会前夜まで必死にチューニングしたらしく、ロボットが5台壊れてました(笑)。

大会には協力隊員も参加してくれました。ルワンダの学生がロボットのスピードを上げすぎてカーブが曲がれず自滅していく中で、悠然とノロノロ運転でも確実にゴールにたどり着くので、結果的に4位に。

決勝戦では我がTCTが惜しくも破れ2位に。学生が、ゴールの判定に必死で抗議して、涙まで流していたなあ。

大会の様子は、ルワンダTVや新聞の記事になりました。
http://www.newtimes.co.rw/index.php?issue=14571&article=39378


涙を流した学生と大会後に話をしたら、納得したし悔いは無いよ、と爽やかに笑っていました。

2011年3月13日日曜日

何もできないことの辛さ。

胸がつぶれそうだ。
一万人を越す犠牲者、悪化していく原発の状況。

いま自分がルワンダにいることが、もどかしくてしょうがない。
何もできないことの辛さ。

2011年3月12日土曜日

東北地方太平洋沖地震

昨日、JICAの緊急連絡メールが来て驚いた。M8.8の大地震、10m近い津波、そして今も続く原発の危機。被災された方々へお悔やみを申し上げます。一刻も早い救出、復興を願います。

勤務先の会社の工場が岩手と福島にもあり、震災の影響が心配されます。みなさん無事だといいけど。

多くのルワンダ人も心配してくれて、一度しか会っていない人からもお前の家族は大丈夫か?と電話がかかってきました。幸い関東に住む妻と実家、妻の実家ともに無事だったが、地震の知らせを聞いたときは少し焦った。電話がまったくつながらなかったからだ。

ルワンダのラジオで流れるBBCに耳を傾けると、ニュースのほとんどが日本の地震のことだ。特に原発の危機が増してからは緊張が伝わってくる。福島原発の作業員の方は本当に、本当に大変だろうけどがんばってください。


P.S.
今更ながら、なぜ地震大国の日本に原発なんか作ったんだ!と憤らざるを得ない。これは人災だ。最悪の事態になった場合、原発を推進した政治家は、責任を取って炉心へ飛び込んでくれるだろうか。

電力が常に満たされているから人は使うのであって、無ければ無いでなんとかなる。そう考えるのは無茶苦茶だろうか?

国民をたっぷりの電力で満たして、その生活から抜け出させなくさせているのが電力会社だ。ここルワンダでは一日8時間の停電なんて当たり前だが、僕は普通に生きている。

人命を危機にさらし、国土を荒廃させてまで作る電力なんて意味があるのか?グローバルな経済競争のため云々は聞き飽きた。人命の前じゃ、単なるエクスキューズだ。

電力、エネルギーの使用そのものを大幅に減らす世界を考えないといけない。

2011年3月8日火曜日

幻の休日

今日は女性の日、International Women's day。
ルワンダの国会では女性の議員が男性を上回るほど、女性の社会的地位が高い人が多い。

それもあってか、昨年の今日は休日だった。

だが、今日は休日ではない・・・。理由は不明。
てっきり休日だと思っていたので授業の準備をしていなかった。今とてもあせっている。

ルワンダの休日は、突然決まるのです。
前日に政府からラジオ等で放送され、みんな休日を知る。ひどいときは当日の朝になって初めて知ることも。気まぐれ?

ぼくも噂で、今日は休みらしいということを聞いていたので信じてしまった。朝起きたら、みんな着替えていて、大ショック。

今回の教訓は、事前準備はしっかりと、噂は信じるな、です。

2011年2月25日金曜日

日本の印象

「東京の空には、トウキョウという文字が浮かんでいるんでしょ!?」
とよくルワンダ人に聞かれる。

彼らはけっこうまじめ。
10人ぐらいのルワンダ人、しかも大学出ている人も同じこと言っている。 

「日本という国はテクノロジーが高いから、空に文字を浮かべられるらしいね。あ、そうそうトヨタ、ホンダもあるね。ジャッキーチェンもね。」

あとは特に思い浮かばない。おそらくルワンダだけでは無くアフリカ諸国の多くの国も同じ印象だと思う。日本への関心が少ないから、なぞの噂が流れる。
日本人は外国からの日本へのイメージに敏感なわりに、情報発信には気を配って無い。だから日本人の"顔"がわかりづらい。


日本の文化発信を担うNHK国際放送は何を放送しているか大雑把に言うと、
日本の風景、食事、現代文化(アニメ紹介、ファッション)、ニュース。
 日本人が普段接しているものを、そのまま放送している感じかな。僕らが見ると、ああラーメン食べたい!と思ったりするけど、アフリカ人が見ても面白くない。ルワンダ人には即、チャンネルを変えられる。


だが同じ東アジアの中国は、現在のアフリカではものすごい存在感がある。中国は資源取引を条件に各国政府に援助を行っており、インフラ整備などに深く関わっている。ルワンダでも多くの道路は中国の援助で作っており、近代的なビルは中国の会社が建てている。


だが中国の援助外交は、日本の生まじめな外交と異なり、武器輸出なども伴ったものであり批判もある。それでも人々は否が応でも関心が向かう。中国語を学ぶ人も多く、キガリには学校もある。中国留学のための奨学金もある。ルワンダの新聞には中国関連の報道が多く掲載されている。正直、中国の存在感には愕然とさせられる。


それでも我々のおこなうボランティアというものは、草の根からの外交だ。ルワンダの人々に少しでも日本人の”顔”を知ってもらうことが目的だ。地道で気が遠くなりそうだが、僕はこのようなアピール方法こそアフリカの人々に受け入れてもらう、本当の道だと信じている。

2011年2月17日木曜日

ルワンダ英語教育

「はわゆうー」
「ぐど、もーにんぐ」
学校までの通勤途中にある小学校で、毎日子供たちに呼びかけられる。

5年ほど前、カガメ大統領の号令によりルワンダの公用語がフランス語から英語に切り替えられた。小学校1年生から英語教育が始まっている。ただ先生たちはフランス語教育で育ってきたので英語が苦手らしく授業は四苦八苦しているよう。

ところが昨日、こんな記事が回覧されてきた。
http://www.newtimes.co.rw/index.php?issue=14538&article=38389
小学校低学年は母国語であるキニャルワンダ語だけで授業を行うとする内容の閣議決定の記事だ。

僕もこれには賛成だ。

以前、うちの奥さん(小学校の先生)と話あったことがあるが、子供が小さいときは母国語だけに専念すべきだという話になった。物事を考える場合、頭の中では母国語で考えるからだ。

たとえば今僕が英語で物事を考えたら幼稚園レベルの物事しか考えられない。いくら毎日英語で会話しても、やっぱり日本語でないとだめだ。

中途半端なキニャルワンダ語と適当な英語しか学べない子供たちは、大人になっても深い思考ができないと思う。これではグローバリズムの前に国が倒れてしまう。

日本でも子供に小さいときから英語教育を受けさせるが、考え直すべきではと思う。英語は大人になっても喋れるようになるものだから。

2011年2月14日月曜日

山の天気は恐ろしい

サージプロテクタ。雷などの大電流を瞬時に防いでくれる。
昨日パソコンを部屋で操作していると、窓の外が突然光ったと同時に手にパチっと電流が流れた。数秒後、轟音が。見るとパソコンの画面は真っ黒。
雷が落ちたのだ。すぐにwindowsの画面が出たので、ほっと一安心。万一のためにキガリで買ったサージプロテクターが役に立ったのだ。dx

と、この記事を書いている最中にも雷が落ちて、感電。なぞの文字dxを打ち込んで放心状態。なんとかパソコンは無事だったが、左手がヒリヒリして心臓がどきどきする。このサージプロテクター役に立っているのか??

ちなみに昨日の雷で、同僚のパソコンが壊れました。バンという音とともに、シューと煙が出て二度と立ち上がらず。。

これからトゥンバは雨季。
山の天気は恐ろしいなあ。

2011年2月11日金曜日

アボガドの木

日本だとサラダなどに使われるアボガド。ルワンダでもよく食べられ、市場に行けば一個50フラン(7円)から売っている。

ポテトフライやご飯、ふかしたキャッサバ、キャベツソースなどを混ぜたルワンダ食に、たっぷりのアボガドを乗せて、ぐちゃぐちゃにかき混ぜて食べるとこれがものすごく美味いのです。
自分の家の裏にもさりげなくアボガドの木があります。これがまたとっても地味。意識しないとアボガドがあることに気づきません。

僕がよっぽどもの欲しそうにアボガドをみていたのでしょうか、子供たちが寄ってきてアボガドを2個くれました。お礼を言って、家で食べるとこれがまた美味しい。とてもクリーミーで森のバターって感じです。ちょっと幸せでした。