2011年10月16日日曜日

虐殺教会の記憶

赤ん坊たちは壁に叩きつけられた。
子供のノート。日付は94年2月で終わっている。

キガリより南へ30kmほどのところにニャマタという地区があります。ここは1994年のジェノサイドがルワンダで一番初めに起こった地域であり、ツチ族とフツ族の対立がもともと激しかったところです。

ニャマタの教会では1万人以上が殺されたそうです。その多くが地域住民。老若男女が狭い教会の敷地に入り、教会ならきっと安全だろうということで身を寄せていたのです。ルワンダ人の大多数はキリスト教徒であり、以前よりおこなわれていた小規模の虐殺では、教会に逃げ込んだ人は助かっていたそうです。

だけど1994年の虐殺は種類が違いました。軍人は人々ですし詰めの教会に手榴弾を投げ込み、民兵のインテラハムウェは鉈で生き残った人々を切り裂いたそうです。生存者はわずか数人。現在、殺害された人々の着ていた服が教会の椅子に積み上げられています。

地下の展示室には数百個の頭蓋骨がならんでいました。棍棒で陥没させられた跡、鉈で切られた跡が残っています。2つの暗い眼窩の底から、鉈を振るわれる瞬間の恐怖の記憶が見えてくるようでした。案内してくれた協力隊員は、ニャマタを訪ねた日本人をこの教会に案内するのはルワンダでの自分の使命だと思う、と言ってました。

この出来事は決して風化してはいけない、遠いアフリカの出来事だと片付けられない気がします。なぜなら風化と無関心こそが為政者の暴走を許すからです。ルワンダの虐殺は政府による誘導といわれています。
 
以前も紹介しましたが、ルワンダでは毎年4月7日よりジェノサイドウィークという、国民が喪に服する期間があります。80万人の犠牲が出たこの出来事を風化させないため、学校やマスコミでも様々なイベントが行われます。同じことが起こらないように、人々は真剣に討論し、本気で涙を流しなら当時のことを振り返ります。

 日本も66年前に多大な犠牲を出した戦争がありました。しかし日本の終戦記念日は、徐々に風化しているように思います。真剣に議論する人もマスコミもあまりいません。自衛隊の強化を前提とした憲法改正運動が起こるのも、 原爆が投下された国でありながら原発が推進されたのも、日本人が大戦の記憶を忘れてしまったからではないでしょうか。600万人の犠牲を出してまで学んだことは一体何だったのか。

ルワンダから学ぶべきことが、日本には大いにあるように感じます。

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